空虚な日々

早く死にたい

雑記

カーテンを閉め切った薄暗い部屋での生活に慣れ切ってしまい、日中に用事があって外に出ると、太陽の光が思いのほか眩しくて倒れそうになる。

引きこもり大学生と言えど、どうしても日中に外の世界へと出かけなくてはいけない用事が2週に1度くらいはある訳だけど、その度にこの街が、季節の巡りと共に少しずつ景色を変えていくのが分かる。そしてそういう時に私は、この世界に私が居ようと居なかろうと、世界は何の問題もなく運動を続けるのだと思い知る。私にとってそれは気楽でもあり、そして寂しくもある事実だ。雄大で静謐なこの世界の運動に取り残されて、6畳の自室やら精神世界やら、或いはあの世やらへと消えていく者のことなど、この世界は気にも留めない。早い話、私が午前1時の津山線の踏切に飛び込んで死んだとしても、この世界にとってそんなことは取るに足らない出来事なのだ。

 

何もする気が起きない。でも何かをしていないと余計なことばかり頭に浮かんできて気が狂いそうになるから、惰性で煙草に火をつけてしまう。金の掛かる暇潰しだ。そしてささやかな自傷行為でもある。

1か月前にアルバイトを辞めてニート同然の生活へと戻ってから、ますます金がない。それでも1日に吸う煙草の本数は一向に減らない。この先の将来、1箱の値段が1000円を超えたら流石に本数を減らそうと思う。

 

幼稚園の年長の年に、卒園旅行でディズニーランドに行った。卒園旅行とは言っても実際はほとんどの時間が同伴の保護者との自由行動で、私は母親と2人で丸1日掛けて様々なアトラクションを満喫した(因みに当時の私は、ショーやパレードなどには微塵も興味のないタイプの子どもだった)(というか今も)。ビッグサンダーマウンテンとホーンテッドマンションに行ったということは覚えている。実際に乗った時のことは記憶していないが、「あの時私はビッグサンダーマウンテンとホーンテッドマンションに行った」という情報を、そのまま事項として今でも覚えているのである。あと後者に関しては、当時からオカルトとかホラーが好きな子どもだったので、「絶対に行く!!」と決めていたことを覚えている。

初めてのディズニーは本当に楽しかった。楽しすぎて頭がおかしくなるかと思った。お土産にジャック・スケリントン(ナイトメアー・ビフォア・クリスマスに登場するドクロのキャラクターだ)のおもちゃを買ったのを覚えている。紐を引っ張るとジャックの手足がカシャカシャと動き回る、チープなおもちゃだった。

目の前に広がる幸福を全身で強く抱き締め、受け止めることだけに夢中だったあの頃の私の目に、今の私はどう映るのだろう。そんなことを考えていると、無意識のうちにまた煙草に火をつけてしまう。

 

失われた関係のことを思う。大抵の人間と同じように、私も今までの人生の中で沢山の人と関係を結び、それを失ってきた。道を振り返ればそこには、様々なかたちで失われた、様々な人たちとの関係の亡骸が横たわっている。別れの言葉という墓標を与えられた亡骸は数える程しかない。互いにさよならを告げることができる別れなど、人生においてそうはないのである。

最近また1つ関係を失った。大抵の別れがそうであるように、そこにさよならという言葉はなかった。墓標を持たない関係の亡骸を懐かしみその思い出に縋るのは、アザミの棘のように柔らかく鋭い感傷を齎すだけの虚しい行為だ。別れの言葉というある種のしるしを持たない関係に再び血を通わせるのは、とても難しいことなのだから。

ゆっくりと離れ離れになっていき、今日も私の世界からあの人の存在が失われていく。まるで眠りから覚めれば少しずつ記憶から消え去ってしまう、明け方の幸せな夢のように。